ひびき会(体で理解・表現)の最近のブログ記事

いい会社研究名古屋を開催しました



22名の方の参加をいただきました


今回のハウスオブローゼの特徴は『親切さ』
親切な方が良いのはわかっていても、なぜ、親切にできないのか?
どうやったら、親切にできるのか?

あるいは、日頃自分はやさしくできているだろうか?
ということを自問自答する時間になりました

●今後の練習予定

4月19日(月)19:00~21:30 新宿文化センター 第2会議室
5月17日(月)19:00~21:30 新宿文化センター 第2会議室
6月21日(月)19:00~21:30 新宿文化センター 第2会議室
次のインプロは高尾さんに無理を言って、E.H.Sheinの『人を助けるとはどういうことか』の2章の経済と演劇を読んでのワークにすることにしました

内容的としては
社会学の交換理論と
Goffman社会劇場を引用して

支援関係がうまくいったり、失敗する背景にある心理の動きを紐解ています

もともと、この日は「仮面」をやろうということになっていました
高尾さんの方でもゴフマンを引用する予定にされていたそうなので、そんなには外れていないのだと思います

結局、私がこの場をつうじて検証したいことは
ワールドカフェでもそうですが、「つくる」という、混沌としている要素に、関係性をあたえ、秩序をつくり、意味をつくりだす行為が人に成長をもたらすのではないかという仮説なのだと思います

なので、この場が良い場になるためには、参加者は単に、インプロを体験してみたいではなくて
12月に舞台を踏むということにコミットしいていくことが必要になります


場面自体は、単純なスキットで良いと思います

これまで、「失敗の恐怖」に対する防衛として「舞台に立たない」という選択以外に、「変化する(失敗も含めて)」こと「(失敗を恐れず)自分らしさに挑戦する」ことを学んできました

これは、「役」を変えたということでもあるのだと思います
一歩進めて、意図的に場面に合わせて「役」を選択できるようにしてゆければと思います

人々が心を閉ざしてバラバラな状態というのは、「役」が固定してしまっている状態なのではないでしょうか

だから、ある意味、いつも明るく社交的な人も、心を閉ざしているのかもしれません

次までには、こんな対話もしながら準備をして当日を迎えられればと思います



Goffmanの社会劇場についての情報収集




『行為と演技 日常生活における自己呈示』1974. E.ゴフマン 石黒毅訳 誠信書房
毎月第3火曜の

昔々あるところに

ところが

なので

なので

なので

とうとう

教訓
昨晩の『闇の子供たち』を事前に観た上で
プレイバックシアターをやった後に、ワールドカフェをするという手法の振り返りをしておきたい

私が到達したかったのは、
プレイバックシアターや演劇によって
頭で「知っている」から、心で「理解しいている」のレベルへの深化

そして、ワールドカフェでの対話を通じて、自分の中でイメージが湧いてくる
できれば、それが共有されたイメージとして

そのイメージが、もはや現実との区別がつかないくらいはっきりと絵になってくると
何かをせずにはいられないという気持が高まってくる

そこで、具体的な行動、しかも、誰でもすぐにできるような小さな一歩を踏み出す
行動したということがフィードバックされて、更に次の行動を呼び起こす・・・


今回は、時間の都合で対話を2回で終わらざるをえなかった
どれくらいイメージが湧いただろうか・・・

17日は、映画を観るが2時間あるので、身体表現+対話に割ける時間は1時間くらいだろう


対話は最低20分は必要そうだ。1時間半は欲しいな
今回は、映画という多義的な媒体だけに、身体表現を入れることは有効なのではないかと思う


何とか、身体表現と対話が自然と移行してゆくようにできないだろか



6月16日(火)に再度、挑戦の機会がある
少しでも意見を集めて次につなげてきたい




昨晩は、HRIの協賛のもと プレイバッカーズ


をエンパワメントするワークショップをヴィジョンハウスで実施さていただきました



おかげさまで、かものはしプロジェクトの亀山様をはじめとして、30名以上の方のご参加をいただき、大変に熱気のこもった場になりました

みなさん、木のぬくもりを感じる場に良いなぁとおっしゃれていました

今回は、いかに他人事が自分事になりうるのかというテーマのもとに、演劇の手法を取り入れてから、対話をすることで、頭で知っているから心で理解するに代わり、行動変容に至るのではないかとい
う仮説で取り組みました

役割を演じるために、状況や立場やその時の感情をあらためて、理解しようとするプロセスで、自分事に引き寄せうるということがわかりました



これからも 映像+身体表現+対話による、知る・理解・イメージング・実践について継続して探求することで、実践的な方法を確立したいと思っております

今後は
6月16日に『花はどこへいった』で
7月17日に『降りてゆく生き方』(これは、榎本さんと)
また、日程は決まっていませんが、榎本さんの『チェンジザ ドリーム シンポジウム』でトライをします


APP(アジア・プロアクティブ・パートナーズ)のメンバーもプロジェクトを通じて、自分と他者を理解するということが徐々にわかってきたのではないかと思います

今回のプロジェクトリーダーAPPの共同代表のすーさん


ブレイクダウンして、「自分が共感できるところ」を探すというプロセスは

とってもとっても大事なことだと思います。


ブレイクダウンせずにこのテーマに取り組もうと思ったら

宮崎あおいさん演じる音羽さんみたいに、現場に乗り込む以外の方法が見えなかったりしますからね。


でも、日本人である自分にできることって絶対たくさんあるんです!

知ってしまったらもうほっとけません。

そもそも、この事実を知らないことは罪だと思います。

「無知は罪である」 by 高校の世界史の素敵なみどり先生


これが書かれたのは、かなり前なので、このときからは、さらに掘り下げがなされているのだと思う

確かに、知れば何かをせざるをえなくなる


だから、みんな知らないフリをしたいのだと思う

その気持ちをどう乗り越えてゆけるか、一人ひとりが自分の弱さやずるさとどう向き合えるかが重要なところ


映画では、貧民街の住人たちに根気よく語りかけ、集会に動員してゆくプロセスが省かれています。政治に巻き込まれたくないという感覚は日本の活動家も同じなのだと思います。ただ、他者と協力して環境を変えてゆくというのはどうしても政治的な動きになってしまうのですよね


私は、最後のパレードをつぶそうとした既得権者の動きとこれで民主化は10年は遅れる・・・という嘆きを描写して欲しかったなと思います。日本にも安保闘争の時代がありました。ただ、権力者との闘争のはずの共産主義が結局は新しい権力闘争にすぎなかったという幻滅のために、日本人はすっかり政治と距離をおくようになりました


結果、残ったのはアメリカ金融資本主義への追随と拝金主義でした。今回話される必要があるのは、共産主義や新自由主義に代わる新しい社会ビジョンなのだと思います。社会起業家はその代替案のひとつなのでしょう。そこには、対話が必要だと思います



APPの共同代表の多読書評ブロガーの石井さん

こういった類の映画を他人事としてではなく、自分事としてみるのは非常に重いことだということを改めて実感。

今回は、チャリティというような手を伸ばせる場所があるからまだ救えるが、これをヒトゴトとして済まさざるを得ないという人がいるのもまたしょうがないと思ってしまう自分がいます。


確かに、そういう視点もあるかな

ただ、そういう場に参加することと自分で創り出すというのは、似て非なるところだろ思います


映像+本から情報に加えて、演じて(体で表現して)みたうえで、ワールドカフェで語り合うことによって、自分ごととしてみる度合いがどれくらい深まるのか聞いてみたいところです



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今回、一番メッセージしたいのは、人身売買や臓器売買などの背景にある

既得権者が権力や暴力を使って、弱い人を抑圧し、搾取するところにあり、
かつ、弱い人があきらめて何もしないという構造は

形を変えて日本にもあるということです

政治の腐敗
企業の偽装
いじめや犯罪など


すべて、同じ構造から生じていることだと思います


この構造的な問題を解消するためには

一人ひとりが、自分自身の人生に責任を持つことだと思います

そのために

知ろうとすること
解決するために、知恵を出しあおうとすること
そして、実際に行動してみることだと思います

過去のプレイバックシアターの体験では、私自身は「ストーリー」と言われている、いわゆる演劇表現を観るという経験よりも

小グループで個人的な経験を聴き、みんなで演じてみるという経験の方が良かったと感じています

自分ごとにするには、ここにいる私とあなたという密接な関係において理解が深まるということがある

他者の視点も借りて、複眼的に現象を理解する過程でもあり、その人を理解する過程でもある


26人ですので、6~7名で4グループ(もしくは8名で3グルー)に分かれてDVDを観て感じたことを体で表現してみることを心にできればと考えます

今回のイベントでは
プレイバックを活用して、「体で知る」

ワールドカフェで、知恵を出し合ってイメージを膨らませる

そして、なんらか、実践することを決め、報告しあう場としてAPPを場として活用する


という流れになればと思います


最初の10分くらいに、導入的な話しをさせていただいて
1時間50分は、プレイバッカーズさんで進めていただき

残り45分はワールドカフェを行い、
15分×3回のグループ変更
(3回目はプレイバックの時のグループに戻る)

なので、グループに分かれてのプレイバックとワールドカフェはそのままつながっているように運営できると良いなぁと思っています
プレイバックシアターのソーシャルチェンジのセッションに合わせて、『闇の子供たち』を読んだ
先にDVDを観ていたので、大体のあらすじはわかっていたのですが、本と映画はまったく別の物語ですね

映画は、幼児売買、幼児売買春、臓器売買という悪に対して

目の前の一人を救えなくて、何の意味があるのか    というミクロの視点と
全体の構造を変えなければ、同じことが繰り返される というマクロの視点
を対立軸に構成されていた

本は、もっと大きな視点で描かれていた
既得権を持つ権力者と
力なき抑圧され搾取される者との
一度出来上がってしまうとなかなか変えられない関係についてだ

私には、日本の元気がない地方都市儲からないと嘆く中小企業と同じ構造だと感じられた

私は、この関係に興味が関心がある
この関係は、タイという国固有の問題ではなく

形を変えて、日本にも、企業の中にも、家庭においても、そして、私たち一人ひとりの心の中にも存在していることなのだ

だから、私には、これは極めて自分的問題なのだと考えている
私が日々格闘している対象そのものなのだ

私は、タイの問題を扱うことは今のところはないのだけれど、私が、目の前にいる、創造的な組織をつくりたいと思っている人のサポートをすることが、まわり回ってこの問題を解決することにつながると信じているのだ

つまり、
結局、地方や開発途上の国の問題は「創る」という能力が育まれていないところにある

金をもらって、インフラをつくってそれで終わりになってしまう

グラミン銀行のスモールファイナンスのように、そのお金で付加価値を創り出し、資本金が回転する仕組みをつくることができないと貧困らの脱出はできない

足りないから、奪い合うことになる

また、都市においても、「創る」能力がなければ、自己を表現するという充実感が得られずに心の貧困に陥ってしまう

だから、「創る」ということができるようになる必要があると考えるのです

本を読んで私が印象に残った部分を抜き出しておきます
ラストの部分

映画でにはない、人が突き動かされるリアリティについての表現がいきいきとされています

不安なまなざしで寄り添い、音羽恵子の手をしっかり握りしめている子供たちの手から伝わってくるぬくもりに音羽恵子はいまはっきりと思うのだった。わたしを必要としている子供たちがいる限り、わたしはここにとどまろう、と。それが私自身なのだから。この現実から別の現実-日本に逃避しても、わたしはわたし自身から逃れることはできない。わたしは子供たちと一緒に私自身を生きるのだ  469p


この手前に、南部からのメッセージがあり、そのせいではっきりと自覚をする


この国の子供のことは、この国の人間が解決するしかない。君は所詮、この国では外国人だ。日本に帰ってやることはいくらでもある

日本にいる外国人は所詮、日本人とはちがうのだという排他的な感情に他ならなかった

この部分は、著者が在日として生きてきたという背景もあって、切実に訴えかけてくる。それは、どうやって私たちは遠い国の出来事を自分ごととしてとらえうるのかというヒントを与えてくれているように思う

これは一つの問題ではありません。世界が直面している戦争、難民、差別、虐殺、途方もない犯罪、その他、あらゆる問題が集約されています。欧米や日本では、いったいどこにそんな問題があるのかと思っているでしょうけど、それは見ようとしないからです。見ようとしない者には存在しないも同然なのです。だからこそ、事実と真実を暴露し、世界が陥っている巨大な矛盾は、やがて自分たちの生活をも脅かすことになりかねない  274p

これが、主人公がみている、全体像ですね
音羽さんも南部も見ている全体像は同じです
ただ、アプローチの方法が違う

目の前の一人ひとりを救うのか、
大きな悪に立ち向かうのか

自分はどちらの立場から世界を見ているのか問いかけてきます


この問題は、堕落と腐敗にまみれた政財官の体質を正さなければ前進しないと思う。そのためには労働組合の力を借りて歩調を合わせ、政府に抗議する必要があると思うわ。この問題はすぐれて政治の問題でもあるのよ 286p

単独で講義やデモをしても、あまり効果がないということです。それどころか奴らは弱いとみると潰しにかかります。私は労働運動を二十年やってきましたが、抗議運動を起こすときは連帯が必要です。連帯すれば奴らも、そう簡単には動けません。力には力で対抗するだけの動員をかけて、一歩も引き下がらない気構えを見せなければ駄目です 305p


力と力のぶつかり合いでは、現実を解決することはできないということを日本人は安保闘争から学んだ。社会主義革命も結局は、新たな支配と服従の関係をつくり出すに過ぎなかった。ナパボーンは代替案を発見することができず、結局、全国大行進に参加することにした。日本人は、代替案がないまま希望を失っていった。私たちはどのような代替案を見出しうるだろうか



「ぶんあなたには手を出さないと思う。政府は日本から多額の援助を受けてるから、日本人に手を出すと外交問題になって、援助にも影響が出るおそれがあるし・・・」
音羽恵子は個人的な立場で、幼児売買春や幼児売買を阻止するために少しでも役に立ちたいと思ってNGO活動に参加したが、自分の背後には経済大国日本が存在していることに気付かされて沈うつな気分になった  262p


何事も咲き出すものは金である。とたんに鍋島公彦はしょぼくれた顔になった  341p

つまりは、金の問題かと思うとこういう気持になる。おそらく、著者にはそうではない別の道が見えていることを暗示してくれている


飢えほど恐ろしいものはない。飢えは暴力や死をも凌駕する絶望なのだ。そのことはチューンは体で知っていた。センラーを奴隷のようにあつかえる方法は飢えの恐ろしさをセンラーの体に刻むことであった 22p

売春を強要されている幼い子供たちは、暗い闇の底で飢えに苦しみ、暴力に怯え、身も心もばらばらにされているのです。昼も夜も、夢の中にも、逃げ場はないのです。絶望しかありません。人間にとって一番恐ろしいのは飢えでもなければ死でもないのです。一番恐ろしいのは絶望です。幼い子供たちに生き抜く力があるでしょうか。だからわたしは、どんな小さな希望でも、子供たちに与えたいのです。それがまた私たちの希望につながるので 275p

子供たちを飢えと暴力で支配しようとするマフィアと
その子供たちを救い出そうとするNGOのメンバーの視点が交差するところです

日本の社会のゆきづまりも絶望です
どうやって希望を見出すのか

日本には、飢えも暴力もなくなり、死は日常から隠されている
それでも、希望ではなく、絶望を見出そうとする
社会にとって必要なのは、いったい何なのだろうか?


そんなところを対話を通じて、活路を見出してゆきたいものだ






今回は、インプロ+ワールドカフェで4時間という長丁場のセッションになりましたが、非常に面白い場になりました

この告知を見て参加した方やフローの潜道先生エムズ秋田さん「フロー理論型」マネジメント戦略の小森谷さん、またどみんごさんの教え子の大学生など多彩な顔ぶれになったこともその要因だったかもしれません

会の模様は、すーの頭の中ナルドクに譲るとして、こういう場の力ってすごいなぁといつもながらに思います。なんといっても、普段は、失敗を恐れるような人たちが「アホ」なことを率先してやるんだからねぇ

この次は、プレイバックシアターです。人前でアクターをすることになります。イヤー怖いですねぇ


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