なぜ、真善美なのか
ドラッカーの情報型組織、野中郁次郎の知識創造経営には、アリストテレス以来の真善美という絶対価値に向けて卓越の思想がある
そこには、分析・客観が傍観者になり、非人間的なアプローチになることの弊害を指摘し、人間としての感性の発露を求める姿勢が貫かれている
今日の情報型組織・知識創造経営のひとつの頂点であるgoogleにおいても人間の「善性」に対する楽観的な信頼が貫かれている
前提におかれているのは、主観と客観、自己の基準と他者の基準である
しかし、それは、対立ではなく発達段階である
第一段階:独善・わがまま時代といってもよい主観・自己基準の時代
第二段階:自信喪失・無責任時代といってもよい客観・他者基準の時代
第三段階:賢慮の時代といってもよい主観・自己基準の時代。第一段階との決定的な違いは他者の悲怒嫌への理解があること
この発達段階は、英雄物語の場面展開でもある
第一段階から第二段階へと旅の召喚があり
第二段階の前半は賢者と出会い自分の無力さを思い知らされ修行する
そして、仲間と出会い最大の難関をクリアすることを通じて力をつける
第三段階に進む試験として、他者の痛みを理解する試練を与えられる
力を得て独善に戻り、暴君になるか
他者の苦しみがわかり、力を使う賢慮になるか・・・
第一段階:独善時代
よく子供が創造的だといわれる。ただ、子供の創造性は厳密に言えば好奇心に基づく発見だ。子供には、常識・思い込みが少ないので、大人にとっては周知の事実も含めて興味をもつ。ただ、子供にできるのは興味をもつことだけで、その背景にあるパターンや原理を理解して、説明することはできない。だから、不思議だな、凄いなと思うに留まる
発見を価値に変換するためには、言葉や論理、ものによる理解と説明が必要になる
頭の中にやどったイメージを自分の外に対象として出さなければならない
持っている知識や表現方法がないために、もっぱら体を使って表現し伝えようとする
第二段階:自信喪失・無責任時代
他者に伝えるということは、相手の言葉を使うということに他ならない。
おもに言語・理論を使って客観・他者の基準の時代に入る
子供から大人になるということは、社会一般で使っている言葉や論理、ものといった自分の外にあるものを使うことを求められる時代である。当然、うまく使いこなすことはできない。
科学では、自己の主観を禁じられる。徹底的に客観性を求められる。それは、単純化であり、割り切りである
子供から大人になるときに、技の側面からもうまくいかないし、科学的であることで徹底的に自己を否定され、自己を見失い、自信喪失、傍観者無責任の時代を迎える
第三段階:賢慮の時代
しかし、創造という観点からいえば、客観・他者の基準からは何も生まれない
それは、単なる模倣の時代だからだ。この次の段階に進まなければならない
次の段階とは、理論・客観・他者の基準の裏づけのある主観・自己の基準です
子供の主観・自己の基準との違いは他者の悲しみを知っていること。子供の意見は正直で正論です。ゆえに、時として残酷でもあります。しかし、多くの人はわかっていてできないことに悩み苦しみ責任を放棄するしかないという状況にいるという理解が必要なのです。人の悲しみを知らなければ、他人は馬鹿にしか見えない。それでは、選民・愚民の発想から人が人を支配する世界をつくりだしてしまう
創造をするためには、ある種外の世界を遮断して自分の世界に篭る事も必要になる。それでも、誤らないためのよりどころが真善美という絶対価値なのです。他者と比べてという相対価値から脱出して、高い基準に向かおうとするからこそ価値のある創造ができる
人が集まって構成する社会も成長する
高齢化社会とは賢慮の社会になりうる可能性を秘めている
今の時代は、第二段階から第三段階に進むところで、独善に陥るか賢慮になれるかが問われているのかもしれない
第三段階に進んで、世の中をよりよくする仕事をできる人が増えることで、社会は民主的なものになる可能性がある


